ポンコツおっさんの手記

音楽、映画、社会、日常なんかを自分のペースで書いていけたらと思います。飽き性な性格なので継続できる様に頑張ります。

音楽に歌詞は必要ないのか?

こんにちはブタバナです。

私は、音楽が好きでいろんな曲を聴きます。

それこそ洋楽&邦楽問わずにポップス、ロック、テクノ、ソウル、ヒップホップ、ジャズ、アンビエントと他にも結構なんでも聴きますしもちろんインストゥルメンタル(楽器演奏)も聴いている。

そして、共通の音楽の趣味が合う人と音楽談義になったりするのですが

そんな人と話をする時に、たまにこんな事を言う人がいる。

 

『音楽に歌詞は必要ない、音楽なのだから音で表現するのが当たり前!音で伝えろ!』

 

こんな事を言う人間は少なからず一定数いると思う。

確かに、音楽の本質を追求していけば、それは音が本質であり

そこにバンドがあれば、楽器演奏が音楽の本質になるだろう

歌詞というものは付加価値に過ぎないかもしれない。

 

しかし、上記のような意見には賛成できない。

彼らは、音楽というものを愛するがあまり、音楽はこうであるべきだという考えに囚われ過ぎているような気がする。

私がまず彼らに言いたいのは音楽とは自己表現の手段であり、芸術という大枠の中に無数にある表現方法の一部であるという事だ。

 

『そして音楽は芸術であり、芸術の本質は何で表現するかではなく何を表現するかである事』

 

文章、絵画、彫刻、ダンス、スポーツ、ファッション、演劇…全てが表現手段であり、自ら表現方法を見つける事だってできる。

そんな中、音楽に固執するのは表現の幅を狭める行為である。

 

音楽にとって歌詞は付加価値だと言ったが、音楽という物を歌詞が

より豊かにする物であるならばそれは必要なのだ。

 

もちろん、音楽+ダンスでも音楽+演劇でも、音楽+映像でも構わない

極論、近年のアイドルが拙いダンスや歌、容姿などを売り物にする

あれだって立派な表現方法なのだ。

 

要するにその音楽が好きか嫌いかという事と、表現方法の是非は別問題なのだ。

 

 

私が好きなミュージシャンで言えば。

キリンジ』や『アーケードファイヤ』はどちらも、音楽という側面から見ても

超一流だと思うが、キリンジに関しては歌詞、アーケードファイヤーについては演奏時のパフォーマンスと映像作品がいずれも神がかっている。

 

まずはキリンジから観てもらいたい。↓

キリンジの代表曲『エイリアン』


キリンジ - エイリアンズ

 

私のフェイバリットソングその1『かどわかされて』


かどわかされて

 

私のフェイバリットソングその2『愛のコーダ』


Kirinj - 愛のCoda

 

キリンジの歌詞は、純文学のような世界観とブラックユーモアがある、

目を閉じると、映画の中で音楽がなっているかのような印象に近い。

歌詞が音楽を支え音楽が歌詞を支えて、彼らの作品は成り立っている。

彼らの音楽には歌詞は必要不可欠なのだ。

 

 

そしてこちらがアーケードファイヤー↓

『A Take Away Show』といのは映像作家ヴィンセント・ムーンがゲリラ的に街角なんかとミュージシャンとカメラ1台で現れて即興演奏をする様子を映像作品にしたもの

アーケードファイヤーのメンバーがエレベーターの中で、すし詰めになりながら

壁を叩いてリズムを取ったり、雑誌を破くなどして音楽を紡ぐ様子が見られる。


Arcade Fire | A Take Away Show - HD Version

 

こちらは、Youtubeミュージックアワードのライブ動画

映画「マルコビッチの穴」でお馴染みの監督:スパイク・ジョーンズとタッグを組んだ作品です。↓


Arcade Fire Afterlife Live at the YouTube Music Awards YTMA YouTube 720p

 

アーケードファイヤーの音楽は素晴らしい…だけれど彼らは、音楽という形にこだわらずファンを喜ばせようとする精神こそがが新たな創造を生むのだ。

 

 

 まとめ

別々の表現を切り離して考えるのはなく

色んな文化があり、色んな表現があり、それが混ざり合って起こる化学反応が

あるからこそ音楽は面白いと思う。